親として、子や孫に屈託の無い人生を送って欲しい気持ちはやまやまだが、人の幸せにはいろんな形があるものだ。
四十数年生きて、いろんな人と出逢い、苦しみや悲しみを経験するほどに、優しい強さを秘めている人の多いことも知った。
人として、すこしは成長したということだろうか・・・。
ごく平凡な幸せを願いながら、決めた相手は再婚。思春期の娘がいて、母親が倒れたのを機に老境の両親と同居する為、福岡へ戻った脱サラ組。しかも年齢差は二十。
当時二十一才の私の結婚相手として、家族の祝福が受けられる筈がなかった。
父はものも言えぬほど沈み、年齢差と娘との関係を心配した母は日ごとに瘠せていった。
ふたりの憔悴振りを見かねた兄たちが仕事の合間を縫って何度も説得にやってきた。
貧しい家庭ではあったが、家族の愛情を一身に受けて育った私が、幸せを願ってくれる大切な人たちを苦しめていることが辛かった。
「必ず、幸せになります」と言い切り、田舎道をどこまでも追いかけてくる母を振り切ってバスに飛び乗った。
取り残された母の、家路の足取りを思うと、胸えぐられる思いだったが、引き返せば、もっと大切なものを失う気がした。
人生には様々な岐路が待ち受けているが、どの道に踏み出すか、決めるのはいつも自分自身。私はあの日、はじめて自分の足で歩き始めようとしていた。
家族の不安は、私の中にも渦巻いていたが、夫が大好きだったし、義父母は孫のような嫁を温かく迎えた。そして多感な季節を迎えた少女が、姉のような私を父親の妻として受け入れてくれた。何もかもがちぐはぐだったが、みんなが「幸せな家庭」を切望していた。新しい家族に必要とされる喜びが「前へ進め」と背を押した。
想像に難くない曲折も経て、生活が落ち着きを見せ始めたころ、長い沈黙を続けていた私の病が正体を現した。と言っても、病名が分かっただけで、原因も治療法も確立されておらず、症状が劇症化すれば、取り返しのつかない事にもなるというもの。生涯投薬が続く事に加え、妊娠や出産がその引き金を引く確率が高いことを知って、幾晩泣いたことだろう・・・。
その頃には、実家の両親も夫に全幅の信頼を置いてくれていたが、何年も実子のない私の先行きを案じていた。この上、不治の病です、とは言い出せなかった。
幸い、入院する事もなく仕事を続け、「悪友」との仲はすこしの我が儘なら許し合える旧知の間柄となった。
これまでに体調にいくつかの山はあったが、義父を送った時も、義母を看取ったときも、不思議な事に、山と大事が重なる事無く今日を迎えている。
義父亡き後八年間、見守りの必要な義母の介護と仕事に明け暮れた。
体はいつもくたくただったが、義母は不思議な元気をくれる人でもあった。理解を超えた行動と、慢性的な寝不足に暴発しそうな時、無邪気な「ありがとう」のひと言が、過熱した心に染み渡った。当時は一日、一日を必死で生きていたが、今振り返ると、どれも皆、優しい記憶の中のひとこまである。
そんな状態だったから、実家の両親には随分と寂しい思いもさせてしまったが、母はいつも、「お義母さんを大切にして頂戴、それがいちばん嬉しい」と言ってくれた。
娘の結婚が決まった或る日、母が電話で「○○ちゃんが、『おばあちゃん、おかあさんのことは心配せんでね』って、言うてくれたよ」。
受話器の向こうには、娘の成長を心から喜んでくれている両親がいた。
娘の優しいひと言が嬉しかった、と母は言い、「幸せ者」と呼ばれて、受話器を握り締めたまま、声にならなかった。
その娘も今では、やんちゃなふたりの子の母である。
四十路半ばの今、二十数年の結婚生活を思うと、ドラマティックな展開の中、変則的な家族が、知恵を出し合い、肩を寄せ合って、幾多の壁を越えてきた自負がある。
守られる幸せばかりを求めていた私が、守り、慈しむ幸せを知って、一度きりの人生を存分に生きた満足感もある。
この先、ふたりの間にある時差は、確実に苛酷な状況を伴って、これからの生活に、かつてない影を落とすのだろう。そうなればきっと又、その時々のベストを尽くして生きていこうとする筈。
着物も、宝石も、何ひとつ遺せそうにないけれど、ささやかな幸せの置き土産を、娘はきっとよろこんで受け取ってくれるだろう。
願わくは、ふたりの最終章が穏やかな時間で満たされていて、スルスルと幕が下りるのを静かな感慨の中で見届けられたなら、もう、なにも言う事はない。
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