2011年10月17日 (月)

リスペクト

年齢と共に減少してはきたが、好奇心は旺盛な方かもしれない。母に似た私だ。
残念ながら生まれ持っての美貌も、明晰な頭脳も持ち合わせなかったので、お洒落や学問についてはまるで無粋で、情けない限りである。

少女の頃は御茶やお花のお稽古が楽しくて仕方がなかったが、長じてからは料理が楽しい。
殊に、母が得意としていたことを好んでやってみたくなる。

母は肝っ玉母さんで、今風の素敵なお母さんたちとは随分とイメージが異なる。
それでも、頑張り屋で、優しくて、何をやっても、上手くなろうと努力を続ける人だ。
九十歳近くなっても、実家を訪ねると、庭いっぱいに色とりどりの花を咲かせている。

母の田舎料理は美味しい。
殊に鰯の味醂干しなどは絶品だった。

いろんな魚が美味しくなるこの季節、あの味が恋しくてもう何度か挑戦してみるがなかなか母には敵わない。

でも、いつかあんな風に人を虜にするような絶品の干物を作ってみたい。
街での暮らしは、まず素材選びから困難だ。

休みの日に産直で仕入れて、大量に拵えたが、お天気頼みの仕事でもあり、なかなか思うように仕上がらない。
何と言ってもあの、一枚でご飯がお替りできるほどの美味しさに辿り着かない。

「鰯の高うして、後ずさりしながら買うたよ」とか言いながら、美味しい干物を包んで持たせてくれた母を心から敬愛している。
やる気と根気は、うん!負けてない。

ああ・・これで美人だったらなぁ・・・・・。
ハートも、胃袋も、がっちり鷲掴み・・・・・・・・なのに。

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2010年4月25日 (日)

ご無沙汰続きでごめんなさい

姉の手術が終わり、三日後にやっと人工呼吸器が外れ、面会に行ってきました。

やっと、意識も正常に戻り、声はまだ出ませんが、顔を見て嬉しそうな表情を見せてくれたことに安堵しました。

私の掌に指文字で「うまくいった?」と書いた姉に親指を立てて力強く「うん!大きな壁をひとつクリアしたよ!」と言っておきながら思わず涙が出そうになりました。本当に大変なのは実はこれから・・・・・。

麻酔技術をはじめ、医療の進歩はめざましいものがあるようで、たくさんの機械に繋がれて横たわっている姉を見ていながら、私は漠然とした希望を持ちました。
「今でよかった・・・・」これが正直な印象です。
恐らく暫く前だったら、同じレベルの手術でもこうは行かなかったんじゃないかと思うのです。

姉は利き手でナースコールのようなボタンを握り締めていて、術後の痛みがひどくなると自分で麻酔薬のボタンを押すのだそうです。
そのたびに適量のお薬が注入され、痛みを緩和してくれるのだそうです。甥が同席しての五分間ほどの面会時間に顔をしかめながらボタンを押していました。

まだ暫くは面会もままならない状態ですが、兄弟が近くに居る・・・それだけでも少しは支えになれるかな・・・と思っています。

実家で心配している母や、他の兄弟に報告して、みんながひとまず安堵してくれたことも、なんだか自分のお手柄みたいな・・・妙な気分で久しぶりにすこしだけゆっくりすごした休日でした。

今日は、夫と自分の好物を夕食に用意したいと思います。

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2009年6月15日 (月)

忘れません・・・

幼い頃から遺影でしか知らない伯父。

父の葬儀の後、お墓に参る度に、戦死した伯父の墓石裏に刻まれた「昭和十九年一月二十五日没・享年二十三歳」の文字を切なく眺めた。
幼い頃聞かされた伯父の温厚な人柄に、戦争によって二十三年で終えた短すぎる人生が重なって、もう一度手を合わせずにいられない。

母は、その伯父に嫁いだばかりだった。
「あの娘を是非」と言い残し出征した伯父に、母は一人、嫁いで間もなく戦死の知らせを受けたという。

悲嘆に暮れる両親を残し、実家に帰りきれなかった母は、両親に懇願され、終戦後復員した弟の妻となった。あまりにひどい話だが、当時は意外に聞く話だったという。
父は伯父と違いワンマンで豪胆な人だった。
歳の離れた姉は幼い頃、祖父がよく伯父の遺髪を取り出しては泣いていたことを憶えている・・・と言っていた。

昨年暮れ、実家の床の間を掃除していて、一枚のコピーが目に留まった。戦艦らしき写真と年表が記してあった・・・。
一体何だろう・・・と、不思議に思っていると、次兄が「伯父さんのお墓に戦死された日が刻んであるけどね・・・。遺骨が戻ってきたわけでもなく、一体、この命日が本当だったのかどうか、せめて知りたくなってな・・・。図書館で調べてみたら、・・・やっぱり本当だったよ。伯父さんが乗ってた戦艦はあの日、撃沈されとった・・・」。
何事につけ、優しい兄である。
母が以前「あの子はどことなく一俊伯父さんに似とる」と言っていたのを思い出した。
忘れかけていたちいさな記憶の断片が、伯父の人柄に符合して少し複雑だった。

「一等駆逐艦・涼風(スズカゼ)・・・・・1944・1・25カロリン諸島で米潜スキップジャックの雷撃を受け沈没」。

墓石に刻まれた、伯父の短い生涯に思いを寄せるきっかけになった一枚のコピー・・・平和で自由な時代しか知らない私たちの生活が、悲惨な犠牲の上に成り立つものだということをせめて私は忘れずに居たい。

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2009年3月 7日 (土)

生き甲斐

先週、姉と待ち合わせて母に会いに行った。

兄たちは生憎仕事で来れなかった。

父が居た頃、実家の冷蔵庫には、豪華ではないが、素性のいい食材が少しづつ詰まっていた。乾物などの保存食は大方、母の手に依る品だった。
食が細い上に気まぐれな父が、少しでも食旨を動かしてくれるなら、いつでも大抵のものは出来るように心を砕いていたのだろう。

父が逝ってから、冷蔵庫の中身は一変した。
一人暮らしの身にはどう見ても大きすぎる冷蔵庫の中はガランとしていて「これで、一体何ができるんだろう?」という有様だ。
ひとり分の仕度をする気力が失せたのだ・・・よく分かる気がする。身近に自分を頼りにしてくれる者のあることは、ある意味幸福なことなのだ。手のかかる父は母の拠りどころであったのだろう。

加えて、今年になってスクーターの免許を返上し、電動車椅子を使っている。これまで5分で行けた場所まで20分もかかる、と至って不満げである。
気候のいい頃ならよいのだろうが、時速数キロしか出ないため、途中で雨でも降り出したら寒くて凍えるのだという。
85歳という年齢から考えれば、免許を更新する方が無謀だとは思うが、母にとって、思い立ったらすぐに行動できる「自立」のための大切な杖だったのだろう。
ストレスが高じてか、帯状疱疹まで患い、めっきり元気をなくしている。

そんな母の冷蔵庫を開けてみて驚いた。
翡翠色に茹で上げたツワぶきが三つの袋に小分けされ、鎮座している。
暖冬とは言え、まだツワぶきの季節には早すぎる。
・・・よく見れば、その殆どは未だ小さく、直径3ミリに満たないものまで綺麗に剥き上げている。

訊けば、娘や孫たちが好きだから・・・と言う。姉も私も大好物だ。
訪ねてくると聞いて、近くの野に摘みに行き、三日がかりで剥き上げ、茹でておいてくれたのだそうだ。
兄が釣っておいてくれたアラカブやメバルなども綺麗に拵えてある。

家に帰って、二軒分のツワぶきを大きな炒め鍋に入れてみて驚いた。小分けされた袋はそんなに大きくは感じなかったが、鍋にあけた二袋分のツワぶきの量は圧巻だった。

こんなにたくさんのツワぶきを母は一人で剥いてくれたのだ。姉の分まで入れると本当にすごい量だ。

孫たちがまだ小さい頃、母のツワぶきをとても喜んで食べた。
まだお箸も使えない下の子まで、両手で掴んで夢中で食べるのを、皆笑って眺めていたものだ。

お金さえ払えばなんでも簡単に手に入る時代ではあるが、母の剥いてくれるツワぶきや釣りたての小魚の味は、あの子達の中でかけがえの無い記憶となって、母の面影の隣に居続けることだろう。

「お母さんの生き甲斐よ」。
母の口から久々に聞いた言葉だった。

「人はパンのみにて生きるに非ず」。書きの種さんも、時々いいこと言う。

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2008年4月 6日 (日)

花冷え

「雪が溶けたので出掛けてみようと思います」。

数日前にそんなメールをいただいた。当地では、咲ききれずにいた桜が、やっと見頃を迎えようとした頃だ。新潟でも「深雪の里」と呼ばれる豪雪地帯。
きのう夕方到着され、店を閉めてからお食事を差し上げた。

一人娘の結婚を喜びながらも戸惑っておられる様子が覗えた。
相変らず「娘は、依然連絡をくれません」とおっしゃる。私や婚約者を介して連絡を取り合っているらしい。聞けば中国自動車道で突然鹿が飛び出し撥ねてしまったとのこと。幸いおふたりとも怪我も無く安心したが、車はそのまま走ることもできないほどの被害を受けて修理中だとのこと・・・。一歩間違えば大惨事である。
同席している間の両者は極普通の仲の良い親子であるが、そんな一大事も彼女は知らされておらず、違和感を感じた。
当の彼女は仕事熱心で、周りへの気遣いもできる女性である。なのに、家族観とでも言うのか・・・なんだか希薄な印象を受ける。
この一風変わった親子関係が、なんだか不思議である。
よく言えば「親離れできた娘と、子離れできていない親」の構図だが、他人には他人の事情もあるからあまり深く介入することは控える。

差し出がましいことを言ってみれば「自立と自由」の理想の下で育ててきたら、ここに来て、他にも伝えるべき大切なことがあったと感じておられる様子だ。
教育者として長い経験を積まれた人の、理想と本音の狭間で生じた「ちいさな挫折」かもしれない・・・。
甘えることと、寄り添うことは、明らかに違うのに・・・。

父が逝って、ひとり暮らす母。
なるべく会いに行く事を心掛けているが、毎日をギリギリで暮らしていると、正直しんどい。それでも、顔を見れば私自身安心するし、素直に喜んでくれる人が居ることを幸せだとも思う。
頑張りとおして生きてきた高齢の母に、一日でも多くの安らげる日々を送って欲しい。

「自由」はいつも「責任」と一対だと教えられて育った。
今もって、たくさんの人たちに支えられて生きている。
親が子を想う気持ちにはさほどの違いは無かろうが、想いの伝え方は大きく違っていた。

パソコンの手を止めて窓から見る桜は、どこまでも美しく、優しく、艶やかに咲く。
この花冷えのさなか、「どうぞ見てやってください」と、木も命がけだ。

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2007年2月18日 (日)

初もの

父母の様子が気にかかりながらも、私の体調不良と忙しさが重なり、なかなか実家を訪ねる機会がなかった。

今日はやっとそれが叶い、姉とふたりで出かけたが、恒例の買出しに手間取ってしまい、心配しないよう途中で電話を入れたものの、到着時刻は随分遅れた。

案の定、母は心配して門口で待っていた。「歳をとると、顔を見るが見るまで、心配でね」。
その手には萌えて間もないつわぶきの束。
車が見えはしないかと庭先へ出て、ちいさなつわぶきを見つけ、摘み集めていたらしい。
幾分小振りだが、香りと歯ざわりの良さは例えようがない。大好物の初ものである。

母は指先を黒く染めながら、こともなげに皮をむき、美しい翡翠色に茹で上げると、帰り際に「少しばってん・・・」と持たせてくれた。

自宅に戻って、両手のひらに一杯ほどのつわぶきを、色を損ねないように調理し、夫とふたりでありがたくいただく。

夫は初ものを食べる時、必ず「七十五日、長生き・・・」の話をする。
母と同じ味付けの初ものを口に運びながら、夫の話に上の空で相槌を打ったら、鼻の奥がツン・・とした。

長生きしてほしいのは、父さん、母さん、あなたたちなのに・・・。

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2006年7月19日 (水)

年輪

築二十八年、器用な夫の手で化粧直しが施され、若返った我が家の台所。
少々年季入りのこの空間が私の城である。夫が寝静まった夜中、食卓が私だけの贅沢な書斎となる。

時にはちょっと奮発してご馳走もする。草花や器で季節を上手に演出できたときの家族の反応が私を台所に釘付けにする。

優しかった義父母もこの家から旅立った。娘が嫁ぎ、やがて孫が誕生した。喜びも悲しみも、日常のすべてがきらきらと思い出の輪になり、家具や食器たちに重なり合ってゆく。

家は住む人と共に成長すると言うが、共に泣き、笑い、愛情を注いだ分、新しい家にはない年輪のようなものを感じる。

少々、機能的でない分、ほっとする暖かさがある。頻繁に火の車が駆け抜けるけれど、動じない頼もしさもある。

共に折り返し点を過ぎた台所と私。
この先、一体どんな風に年輪を重ねてゆくのか、ちょっと見ものだと思っている。

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2006年6月17日 (土)

命の神秘?

もう八年も前の話だが、突然体調に変化が起きた。お恥ずかしい話だが、生理が止まったのである。持病があるので、以前から定期的に受診していながら、なぜかそのことを医師に告げていなかった。かれこれ一年が過ぎたころ、さすがに脳天気な私も「おかしい」ことに気付き、恐る恐る告げると、何時にも増して採血管が増え、遂にはMRIという器械で脳の検査まで受ける羽目になった。・・・元々脳のほうはあまり自信がなかったので、予想外の大掛かりな検査に意気消沈していた私に、婦人科の美しい医師は言った。

「おっぱいが出ませんか?」
「・・・は?」あまりに唐突な質問に「馬鹿にしてるのかなあ・・・」などと思いながら、質問の意味を尋ねると、母乳を出すホルモンが異常に出ているとの事。
女性が出産し、母乳を与える間、生理が止まることは知っていたが、残念ながらその経験はない。
美しい医師はまたも言った「絞ったら、きっと出ますよ」。

さすがの私もだんだん不愉快になってきて、早く話を切り上げようとしたとき、空気を感じたのかおもむろに「脳に腫瘍があります」。
ホルモン異常はそのせいだったのだ。

幸いまだ、障害が出るほどの大きさではなく、薬でホルモンの分泌を押さえ、定期的に検査しながら見守ろう、ということになった。「正直、参った」。・・・と思ったのはほんの数日で、なんだか妙に病気と縁がある体なのに、いつも何かに守られているような、不思議な感覚があった。
「ああ、でも、きっと大丈夫!」と思った瞬間、面白いことに気付いた。

体の変調が起きた時期と孫が生まれた時期が重なるのである・・・。毎日、娘の家を訪ね、生まれたばかりの孫をいとおしむうちに、私の中で眠っていた母性が目を覚まし、反応したのかもしれない。

ほら、いるではないか「迷い込んできた子猫を羽の下で休ませる鶏」とか・・・。
姉の家では、居つかれた野良猫を飼い始めたところ、その猫がやせ細った子猫を連れてきて自分の餌をあげているのだという。すっかりお父さんモードで躾までやってのけるというから、たいしたものだ。

医師には一笑に付されてしまったが、わが身に起きた「命の神秘!」。そう思うことにしよう。人生、呪うも楽しむも自分次第だ。

よーし。悪運尽きるまで、ずーっと、笑って生きてやる。

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2006年4月24日 (月)

幸せのかたち

 親として、子や孫に屈託の無い人生を送って欲しい気持ちはやまやまだが、人の幸せにはいろんな形があるものだ。
四十数年生きて、いろんな人と出逢い、苦しみや悲しみを経験するほどに、優しい強さを秘めている人の多いことも知った。
 人として、すこしは成長したということだろうか・・・。

ごく平凡な幸せを願いながら、決めた相手は再婚。思春期の娘がいて、母親が倒れたのを機に老境の両親と同居する為、福岡へ戻った脱サラ組。しかも年齢差は二十。
 当時二十一才の私の結婚相手として、家族の祝福が受けられる筈がなかった。
父はものも言えぬほど沈み、年齢差と娘との関係を心配した母は日ごとに瘠せていった。

ふたりの憔悴振りを見かねた兄たちが仕事の合間を縫って何度も説得にやってきた。
 貧しい家庭ではあったが、家族の愛情を一身に受けて育った私が、幸せを願ってくれる大切な人たちを苦しめていることが辛かった。
「必ず、幸せになります」と言い切り、田舎道をどこまでも追いかけてくる母を振り切ってバスに飛び乗った。
 取り残された母の、家路の足取りを思うと、胸えぐられる思いだったが、引き返せば、もっと大切なものを失う気がした。
人生には様々な岐路が待ち受けているが、どの道に踏み出すか、決めるのはいつも自分自身。私はあの日、はじめて自分の足で歩き始めようとしていた。

家族の不安は、私の中にも渦巻いていたが、夫が大好きだったし、義父母は孫のような嫁を温かく迎えた。そして多感な季節を迎えた少女が、姉のような私を父親の妻として受け入れてくれた。何もかもがちぐはぐだったが、みんなが「幸せな家庭」を切望していた。新しい家族に必要とされる喜びが「前へ進め」と背を押した。

想像に難くない曲折も経て、生活が落ち着きを見せ始めたころ、長い沈黙を続けていた私の病が正体を現した。と言っても、病名が分かっただけで、原因も治療法も確立されておらず、症状が劇症化すれば、取り返しのつかない事にもなるというもの。生涯投薬が続く事に加え、妊娠や出産がその引き金を引く確率が高いことを知って、幾晩泣いたことだろう・・・。

その頃には、実家の両親も夫に全幅の信頼を置いてくれていたが、何年も実子のない私の先行きを案じていた。この上、不治の病です、とは言い出せなかった。

 幸い、入院する事もなく仕事を続け、「悪友」との仲はすこしの我が儘なら許し合える旧知の間柄となった。
 これまでに体調にいくつかの山はあったが、義父を送った時も、義母を看取ったときも、不思議な事に、山と大事が重なる事無く今日を迎えている。
 義父亡き後八年間、見守りの必要な義母の介護と仕事に明け暮れた。
体はいつもくたくただったが、義母は不思議な元気をくれる人でもあった。理解を超えた行動と、慢性的な寝不足に暴発しそうな時、無邪気な「ありがとう」のひと言が、過熱した心に染み渡った。当時は一日、一日を必死で生きていたが、今振り返ると、どれも皆、優しい記憶の中のひとこまである。

そんな状態だったから、実家の両親には随分と寂しい思いもさせてしまったが、母はいつも、「お義母さんを大切にして頂戴、それがいちばん嬉しい」と言ってくれた。
 娘の結婚が決まった或る日、母が電話で「○○ちゃんが、『おばあちゃん、おかあさんのことは心配せんでね』って、言うてくれたよ」。
受話器の向こうには、娘の成長を心から喜んでくれている両親がいた。
 娘の優しいひと言が嬉しかった、と母は言い、「幸せ者」と呼ばれて、受話器を握り締めたまま、声にならなかった。
 その娘も今では、やんちゃなふたりの子の母である。

四十路半ばの今、二十数年の結婚生活を思うと、ドラマティックな展開の中、変則的な家族が、知恵を出し合い、肩を寄せ合って、幾多の壁を越えてきた自負がある。
守られる幸せばかりを求めていた私が、守り、慈しむ幸せを知って、一度きりの人生を存分に生きた満足感もある。
 この先、ふたりの間にある時差は、確実に苛酷な状況を伴って、これからの生活に、かつてない影を落とすのだろう。そうなればきっと又、その時々のベストを尽くして生きていこうとする筈。

着物も、宝石も、何ひとつ遺せそうにないけれど、ささやかな幸せの置き土産を、娘はきっとよろこんで受け取ってくれるだろう。
願わくは、ふたりの最終章が穏やかな時間で満たされていて、スルスルと幕が下りるのを静かな感慨の中で見届けられたなら、もう、なにも言う事はない。

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2006年4月 5日 (水)

十八番

 店の人気ランチメニューとして時々登場する「鶏五目ごはん」。
八十二歳になる母の十八番である。作り方も味も一風変わっていて、私にとっては慣れ親しんだ味でも、お客様に受け入れられるか・・・数年前に初めて出した時、正直不安だった。ところが毎日食べてくれる学生さんまでいてくれて、ほんとうに驚いた。
 たくさんの人に喜んでもらうと、田舎で静かに暮らす母を褒めてもらったようなあったかい気持ちになる。そうは言っても母の作る鶏ごはんと私のそれは「似て非なる」出来なのだ。母はゴボウを小鳥の羽のようにふわりと薄く削ぐ。私はと言えば、噛めばゴリゴリと音がするほどの笹がきにしてしまう。
「削いで送ってやるよ」と母は笑うが、さすがに大量の笹がきを頼める筈も無く、歯ごたえのある鶏ごはんを「私流」として供している。
 母は今も、素朴な季節の手料理で皆を迎えてくれる。両親の笑顔があるだけで充分な食卓に、それぞれの好物を並べて待ってくれている。
 煮魚の絶妙な味加減も、風に舞いそうな笹がきゴボウも、母には到底かなわないのに、いつしか母の味が私の十八番になっている。

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