2011年5月30日 (月)

形見

休日の早朝、突然母から電話で起こされた。

姉の遺品が実家に届いているから来るように、ということだった。

台風の影響で大雨の降りしきる中、実家へと向かった。
早朝の電話は何人分の食事を用意するかの確認も込められていた。90歳目前の母は未だに息子や孫の食事を心配する人だが、さすがにこの雨で買出しにも行けず、私の出番を待っているようだった。

私は起き出し、すぐに準備できそうな物を見繕い、お昼に間に合うように実家へ向かった。

兄弟が揃い、相変らず賑やかな昼食だが、姉は居ない。ついこの間までそこにいたはずの人が居ない違和感は如何ともしがたいが、受け入れるしかないのだろう。

実際、私は長い不眠が解消し、母は目眩が治まったという。

私は姉が愛用していた絵手紙キットを貰って帰ってきた。
俳画を習い、書道も堪能だった姉のお道具には、舅さんから受け継いだらしき見事な硯も収まっていて、果たして私に使いこなせるか不安はあるが、大切に使い継いでいきたいと思っている。

このブログの再開に合わせるように私の手許にやってきたお道具・・・。
また描けるだろうか・・・不安はあるが、姉が背中を押してくれているような気がしてならない。

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2010年6月21日 (月)

好物

久々にタケちゃんネタ・・・・。

夫は、これでもか!というほどとんかつを食べたがる。
私は、別物を用意しながら夫のリクエストに応えている。
今日も、いささかげんなりしながらリクエストを聞いていたら、タケちゃんが「俺も、カツ丼なら毎日でもいいっす」。

しかも、名店の味より、デパ地下程度の物の方がいいらしい・・・。
「ちょっと冷めて、カツがしんなりしたくらいがいいんです」。

私は更にげんなりしながら聞いていると、切なくも面白い理由がありそうだった。
実家の静岡を離れて、神奈川の私立中学に通った彼は、新横浜駅の新幹線乗り場近くのお弁当売り場でいつも「カツ丼」を買って新幹線に乗り込んだのだそうで「きっと『これ食べると家に帰れるんだ・・・』って思ったからじゃないかな・・・」。

12~13歳の少年は寮生活もそこそこ楽しんだらしかったが、何と言っても実家はあったかい場所だったのだろう。
なんだか気持ちがふんわりになったエピソードでした。

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2008年10月13日 (月)

ご馳走

今日、我が家の夕食は孫が釣り上げた見事な鯛のお刺身と、鯛めし。
・・・・・実は、海釣り公園の生簀で釣り上げた鯛でして・・・。

娘婿が転勤で福岡へ戻ることとなり、この連休に引越しのため、孫ふたりを預っている。
最初は兄に舟を出してもらって初めての釣りを楽しませようと思ったのだが、生憎兄は町内の運動会の役員になっているらしく、今日は都合がつかなかった。

次に思いついたのが海釣り公園だった。
早速、朝から出掛けてみたが、桟橋は何処までも人だかりで、漸く釣り糸を垂らす場所を確保するのがやっとな状態。

数時間粘ってみたが、千人ほどはいただろうか・・・、魚を釣り上げた人をひとりだけ見た。30センチほどのボラ・・・。
こどもの頃から豊かな海辺で育ったので、海に釣り糸を垂らせば、こどもでも何か釣果があるものと思っていたが甘かった。こつん、ともしない釣りなんて生まれて初めてだった。

仕方がないので、真鯛がうようよ泳いでいる海洋釣堀でほどほどの鯛を釣らせて帰ろうと思ったら、「大物」がきた。こちらはお約束どおりの「入れ食い」である。
孫たちに一匹づつ釣らせて「お買い上げ」である・・・。

早速、料理のご注文が入った。
「お刺身」と「鯛めし」。
こどもたちにとって、釣堀の魚であっても「自分で釣り上げた鯛」は最高のご馳走だったらしく、大きな土鍋で炊き上げた鯛めしはあっという間に完食だった。

思いっきり自然に触れさせたいという思いがある反面、現代の事情はそれを困難にする。
擬似体験くらいしかさせてはやれないけれど、今日の鯛めしの味は、鮮やかな色や匂いと共に彼らの記憶の中で生き続けてくれるだろうか・・・。

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2007年2月17日 (土)

蛇おんな

夫はあんまり器用な人ではないが、「バナナの叩き売り」や「ガマの油売り」など、的屋のおじさん特有のあのしわがれ声で、独特の節回しも見事に呼び込みの口上を謳い上げる。

少年の頃、縁日で見た興行屋台や、大勢のさくらを引き連れた怪しい物売りに興味が尽きなかったらしく、大方は買ってしまって騙されたと気付くくせに、いつも最前列で食い入るようにその口上を聴いていたそうだ。
腕を腫らして“たまたま”通りかかったおじさんが、その薬を塗ってみてくれと頼む。そのありがたい塗り薬を的屋のおじさんが塗ってやると、あーらあら不思議、たちどころに腫れがひいていった・・。少年はますます夢中になってしまう。

そうして、一日の興行が終わるまで、少年は地面に引かれた線だけで仕切られた一番前の列で一部始終を見届けたのだった。なんと、先ほど腕を腫らして、たまたま通りかかったおじさんや、たくさん買い込んだおばさんまで一緒に後片付けを手伝っていたそうだ。不思議だったと言う・・・勘の悪い少年である・・・。

私の記憶に鮮明なのは、北九州、若松(多分?)の恵比寿神社。
私はその日、多分両親に連れられ、商売繁盛の福笹を持って縁日を楽しんだ。
帰ったら、笹にぶら下がったセルロイドの鯛や小判を外しておままごとに使おうと密かに企んでいた。

真っ赤な鯛に見とれていた私は、その先の黒山の人だかりに目を奪われた。「何?」と訊くと「見世物小屋」だと教えられた。

際どい色調の看板には、頭が二つある牛や、大きな蛇を纏った白い着物姿の女の人が描かれ、いっぺんに興味は鯛から蛇おんなに移った。
恐らく私から強請ったのだろう・・・。幼い子供を連れて見世物小屋を覘く親も親だが、その「目玉ショー」と言ったら、子供心に、看板の何十倍も強烈なインパクトを残した。

綺麗なお姉さんが(当時は確かにそう思った)目の前で生きた蛇を飲み込んでしまったのだ・・・・・・・・・・・・・。
髪型も憶えている。長いおかっぱ頭だった。まるでお茶酌み人形のような・・・。両親もまさかそんなことまでするとは思っていなかったのだろう。きっと子供だましだと思って連れて入ったのだと思う。私は急に手を引っ張られ小屋から連れ出されていた。

昨年だったか、その「お姉さん」のことが新聞に出ていた。「日本で、只ひとりの蛇おんな、引退」の記事だった。
年齢は推定・・と言うことになっていたが、七十過ぎまで現役だったらしい。最近では体調が思わしくなく・・・ということだった。そうだろう、あのさくらのおじさんにしても、このお姉さんにしても、まさに体を張って日本中を回っていたんだろうから・・・。

更に驚いたことに、引退したお姉さんに代わって、「小雪さん」というかわいい名前の新人が登場したと記事は締めくくっていた。
・・・世の中はよく解らない。

「お~っとぉ。は~い、ぼっちゃん、その線から入っちゃぁいけないよ~」。
夫も私も、幼い日の縁日はかなり強烈な思い出で彩られている。

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2006年7月10日 (月)

船が見えたら・・・

眼下に細長い棚田がうねり、その先に穏やかな海を一望する絶景の村に育った。

幼いころ、海運業だった父の船に母も乗り組んでいた。船は専ら大きな港を行き来していて、両親が家に帰ってくることは滅多になかったが、たまに付近を航行する時、ほんの数時間帰宅することがあった。

父の船が入るという知らせがあると、朝から海ばかり見つめていた。
棚田を貫く急勾配の坂道を五、六分も下ると、小さな波止場があって、岬に船影を見つける度に、兄とふたりで転げるように坂を駆けた。

同じことを何度か繰り返し、波止場を目指して近付く父の船を確認すると、船よりも先に波止場に立って、ちぎれんばかりに手を振った。

三つ違いの兄は、船から投げるロープを受けて接岸の手伝いをしたが、私は下船した母を独り占めするチャンスだけを狙っていた。母の懐に飛び込み、胸いっぱいに母の匂いを嗅げば長い空白が埋められる思いだった。
そして父の「髭攻撃」。父にぶら下がったまま帰宅すると、祖母は両親に持たせるため、採れたて野菜を用意して待っていた。

心弾む時間は瞬く間に過ぎ、両親が出航の準備を始めるころには、数時間前までの胸の高鳴りが嘘のように萎んでいた。

夕陽が海面に金色の帯をたなびかせ、その帯を断ち切るように進む船をべそをかきながら見送ると、また岬に船が見える日を、祖母と一緒に待つのだった。

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2006年6月24日 (土)

音の記憶

「ゴゴゴン、ゴゴゴン・・」。エンジン音に目を覚ますと、枕元に菓子と絵本が置いてある。
三、四歳の記憶だろう。

当時、母は機関長の資格を得て、父の船に乗り組んでいた。幼い私は余程後追いがひどかったのか、一時期両親とともに船上で暮らしていた。人形に語りかけ、絵本の世界に没入し、独り遊びが常だったが、寂しくなると機関室のドアを押し開け、呼んでみる。けれども子供のか細い声は機械の轟音に飲み込まれ、忙しく働く母には届かない。

諦めると、操舵室の父のところへ上がっていく。
父は港を出ればいつも愛想を崩し相手をしてくれた。父の髪を梳き、ヘアピンで飾って「パーマ屋さんごっこ」もした。

夜明け前、朝霧をかき分ける出港の汽笛。水平線を突き刺す稲妻。そして冬の日本海、襲いかかる波に一瞬沈む船。丸い船窓から見た暗い海中の記憶は、船酔いで蹲る母の背中とともに脳裏に焼き付いて離れない。

今思えば、どれひとつ採っても無謀な生活だったには違いないが、日々、「生きること」へのエネルギーに溢れていた。大海原に浮かんだ一枚の木の葉が、私の世界の全てだった。
命の危険と背中合わせの暮らしの中で、精一杯慈しんでくれた両親への感謝と、自然への畏敬と、今在る幸せ・・・。

日本中に高度成長の槌音が響いたあのころ、子守唄代わりだったあの音こそ、両親の希望の響きだったに違いない。

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2006年5月21日 (日)

 長年、同じ色の口紅に執着している。服の色や季節に合わせて紅の色も変えるのがみだしなみと分かっていても、なぜかこの色が落ち着くのである。

年の離れた姉がいる。私の物心つく前に東京へ出て、働きながら学んでいたので、彼女と一緒に暮らした記憶は、彼女が結婚前、実家に戻った半年ほど。姉妹とは言え、最初はなかなか素直に思いが伝えられない関係だったように思う。祖母と、三つ上の兄との暮らしの中に、二十四歳の姉は眩しい存在だった。

 雨の日、姉が傘を届けてくれた事があった。授業中の教室がざわめいた。
「誰の姉ちゃん?」
又或る日、お使いを頼まれて入った店で、店のおばさんから「あなたがあの人の妹さん?」と驚かれた。こちらが驚いていると、姉と同じ買い物篭を下げていたからだった。
長い髪を少しカールさせて、後ろに一束に束ね、薄いパールピンクの口紅がよく似合う美しい人だった。

 祖母との暮らしの中では出会ったことのない、ハイカラなおやつを作って待っていてくれたのも私にとっては忘れられない思い出である。姉は私の憧れだった・・・。

大人になって、初めて口紅を撰んだとき、いちばんしっくりしたのが、あの頃姉が使っていたのと同じ色だった。美醜は別にして、造作が似ていたからかも知れない。姉とはまた遠く離れて暮らしたが、十年ほどしてこの近郊に家を買い、引っ越してきた。

 姪の結婚式の化粧室で、姉が「口紅を貸して」と言うので、「きっと、似合うよ」と差し出すと、迷いながら塗って「変じゃない?」と訊いてきた。
長い時間を隔てて、久し振りにあの頃の姉に出会えた気がした。
「又、この色にすれば?」と勧めた私に、「もう、あの頃には戻れないもの・・・」。

優しい人に囲まれて、笑いながら暮らしてきた私は、姉の中で、あれほどの輝きを失うほどの長い時間が過ぎ去っていたことに、やりきれなさを覚えた。

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2006年4月19日 (水)

身代わり

 一昨年の夏、左胸にしこりを見つけた。夫に切り出せぬまま、体のあちこちに奇妙なおできができる夢を何度も見ながら、二晩やり過ごした。二十四時間一緒の生活では、内証で受診することは叶わず、思い切って夫に告げ受診した。

案の定、抜け殻のようになってしまった夫を励ます一方で、自身の心の持ちように苦しんだ。

そんな折、庭の大きな松が突然枯れ始めた。
 かつて、義父が愛した大きな山桜は義父の他界を見届けてから枯れ、奇蹟が起きはしないかと、数年待ったが、ついに芽吹く事はなかった。

愛らしい花を咲かせたカイドウも、義母にとって最後となった病院外泊の日、窓辺を一面ピンクに染め、降りしきった後、ひっそりと枯れた。

まるで、お供をしたかのような一連の出来事がその年の松枯れと重なって心が騒いだ。

 幸い、大事には至らず、元の生活に戻った日、日ごと枯れゆく松を見上げては、私の代わりに大病を持ってゆこうとしたかのような松に誓った。

「あなたの命をいただきました。ほんの1ミリの無駄遣いもいたしません」。

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2006年4月15日 (土)

祖母の眼差し

 爽やかな青空の下、実家の菩提寺で祖母の法要が勤められた。
祖母に連れられ、よく訪れた頃の、苔むした急な石段の山門は既に無く、立派に整備された駐車場から本堂へ。

 荘厳な本堂で、静かに住職を待っていると、幼い頃の寺の賑わいが甦ってきた。
当時、寺の存在は人々の生活に深く根付いていて、折々に営まれる法要の人垣の中に、祖父母に伴われた悪ガキたちの姿もよく見かけたものだ・・・。

 花祭りでいただく甘茶も、庫裏でいただく生姜煎餅も、五人の兄弟に共通の思い出だった。あの頃、怖々見入った恐ろしい地獄絵図は、生きてゆく指針として、子供心に確かな説得力があった。

 両親の仕事の都合で、祖父母に育ててもらったが、祖母はいつも「誰も見とらんと思うても、お天道様は見てござる」と、言った。

「清貧」という言葉も知らない頃から、祖母の事をぼんやりと「美しい人」と、感じながら大人になったように思う。

久々に会う伯母の面差しは、晩年の祖母に生き写しだったが、祖母の寿命をはるかに超えた笑顔は、平和で豊かな時代を映すかのように輝いて見えた。

 野良仕事のかたわら、五人の心に等しくお天道様を忍ばせてくれた祖母の深い眼差しが、今もこの身に注がれている。

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2006年4月13日 (木)

親譲り

 夢を追い続けた父と、苦労続きの母を見てきたせいだろうか、私の憧れは、只平凡な家庭だった。その私が、非凡な結婚でスタートした生活も二十五年を数え、「貧乏ひまなし」と笑える現在に満足している。

若い頃、あれほど憧れた、たおやかな女性には程遠い今、気の強さは母譲り、涙もろさは父譲り。DNAが理想と現実を引き離す。

度重なる手術で「腹の中は空っぽ。これ以上悪うなるとこはなかぞ」と強がっていた父は、肩も膝もすっかり尖ってしまった。ここ数年は、寝たり起きたりの日々である。頼みの母も、いたるところに老いの影が忍び寄る・・・。
それでも、数年前までの実家を訪ねる日の食卓には、父の釣果と母の丹精の野菜が並んだ。「美味しい!」を連発すると、笑顔の母と、「そうか・・」と言わぬうちに涙ぐむ父。

「大きくなるな、大きくなるなよー」。四十数年も昔、父の背中で聞いた不思議な言葉。
愛されている事を総身で感じて育ったように思う。意に背いて大人になってしまったが、父母が伝えたかった大切なものは、きちんと譲り受けたように思う。
 先行きの不安は笑い飛ばして生きて行こう・・・。

この頃、母に似てきた私に、父は少し、不満げである。

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